京都大学 人社未来形発信ユニット

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REPORT

【第3弾】対談シリーズ「立ち止まって、考える」広井良典×出口康夫【前編】

2020/04/22

対談シリーズ「立ち止まって、考える―パンデミック状況下での人文社会科学からの発信」第3弾・前編をお送りします。今回は、こころの未来研究センター教授で、本ユニットの編集委員でもある広井良典先生と、ユニット長・出口康夫先生の対談です。第1弾の藤原辰史先生、第2弾の伊藤公雄先生との対談は、こちらからご覧いただけます。

なお、この対談は2020年4月7日に行われました。

出口康夫 (人社未来形発信ユニット・ユニット長、以下出口) 京都大学人社未来形発信ユニットによる、コロナパンデミックを踏まえたインタビュー対談シリーズ、本日はその第3回をお届けします。これまでも申し上げているように、現在、われわれは、コロナパンデミックの最中にあって、国内外を問わず大変な状況に陥っております。またパンデミックに関連するさまざまな情報も飛び交っていて、われわれ自身がそういった情報に引きずられる格好で、個人的にも社会的にも大きく動揺しています。今日は、このあと緊急事態宣言が出される動きがあるとも聞いております。そういった激動の渦中にあって、時間的、空間的にもスパンを長く取って考える、また原理的にも深く掘り込んで考える人文社会知の立場から、皆さんに立ち止まってお考えいただく機会、きっかけとなるような発信をしたいというのが、この一連の企画の趣旨です。今回は、京都大学のこころの未来研究センターの広井良典さんにお越しいただきました。広井さんはもともとは科学史、科学哲学がご専門ですが、現在は公共政策論も研究されています。広井さん、よろしくお願いいたします。

広井良典 (こころの未来研究センター・教授、以下広井) よろしくお願いします。

グローバル化・都市化とパンデミック

出口 まずはご専門の一つである科学史、科学哲学の観点から、歴史的に遡ったお話をいただきたいと思います。

広井 ありがとうございます。今、出口さんが言われたように、人文社会科学的な知の一つの重要なポイントは、かなり長い時間軸といいますか、大きな歴史の中で、今、起こっている事象を捉えるという、ここに一つ特徴なり、強みがあるかと思います。そうした観点から見ますと、今、この新型コロナウイルスで非常に世の中が大きく動いて、半ば混乱していますが、感染症と人間のかかわりというのは、決して今回が初めてではありません。私はこの分野が決して専門ではないのですが、ごく大まかに捉え返して手短に言うと、やはりまず思い浮かぶのが14世紀、1348年という年がよく引かれますけれど、ヨーロッパのペスト大流行というのがありました。ペストというのは死んだときに体が黒くなるというので黒死病とも言われますが、このときに、古い現象ですから正確なものではないにしても、ヨーロッパの人口の4分の1から3分の1、数にして2000〜3000万人ぐらいが亡くなったと言われています。原因は何かというのはいろいろな説があるようですが、一つは中国から伝わったという説も結構有力なようで、それはチンギスハンの遠征みたいなことが背景に、つまり民族の大きな移動がかなりかかわっているのでないかとも言われているわけです。

ペストが14世紀ですが、ごくかいつまんでいくと、次に注目するべきは16世紀の梅毒です。これも時々話題になる話かと思いますけど、梅毒はコロンブスが1492年つまり15世紀の終わりに、俗に言うアメリカ大陸を発見したというときに、コロンブスと一緒の船に乗っていたメンバーがヨーロッパに持ち帰って、そのあと16世紀に大流行した。駆け足で言うと、続いて天然痘が、今度は逆にと言いますか、ヨーロッパからアステカ、今のメキシコあたりにスペインのコルテス軍を通じて持ち込まれて、それによってアステカ文明自体が滅んだということですね。コルテス自体はむしろ苦戦していたのに天然痘が持ち込まれたことで、コルテス側から見れば敵がなぜか全滅したみたいな感じで、いずれにしても、一つの文明が滅ぶような、そういうインパクトだったわけです。

さらに駆け足で言いますと、19世紀にコレラというのが大流行して、インドからヨーロッパに伝わり多くの死者が出ました。これは当時、いわゆる産業革命も起こって都市化が進み、ヨーロッパの都市の環境はかなり劣悪になって、格差もどんどん広がって、そういう中で貧困地区を中心に大流行した。やがて1880年代にコッホがコレラ菌を発見するとか、そういう流れもあるわけですが、いずれにしても大流行しました。さらには、コレラと似ている面もあるかと思いますけど、20世紀には今度は肺結核がまた大流行しましたが、これも背景としては工業化がどんどん進んで、非常に劣悪な都市環境の中で労働者が過酷な労働を強いられるという状況で蔓延していった。さらに20世紀、21世紀は、1918年のいわゆるスパニッシュ・インフルエンザを含め、インフルエンザが猛威をふるいます。

私はこの分野の専門ではないのですが、以上のような感染症と人間をめぐる歴史の流れの概観だけでも見えてくるのが、2点あると思います。

一つはやはり、パンデミックは広い意味でのグローバル化と関係がある。先ほどのペストは中国から伝わったという説があって、それから梅毒はアメリカからヨーロッパに、それから天然痘は逆にヨーロッパから中米に入る等々です。結局、グローバル化あるいは人の遠距離ないし大規模な移動というのがどんどん進んでいくと、ある場所で、その風土の中で割と静かにしていた菌やウイルスが別の環境に移って動き始めて、しかもそこにいる人々は免疫が全然ないので、一気に広がっていくということです。人間が、よくも悪くもグローバル化で遠距離を大移動する中で生じるというのが一つあるかと思います。

それからもう一つは後半のコレラとか、結核などに関連しますが、都市化とか工業化が進んで格差が広がったり、環境が劣悪になったり、そういう中で感染症が蔓延すると。したがって、パンデミックの背景には第一にグローバル化、第二に都市化や工業化に伴う貧困・格差や生活環境の劣悪化みたいな要因が働いている。そして、やや単純化して捉えると、今回のコロナの感染爆発はその両方が混ざっていると言えるのではないか。つまりグローバル化がこれだけ進んでいるので、中国で発生したのが一気に世界に広がるという、そのスピードが圧倒的であるということがありますし、それから、あとでもう少し考えたいと思いますけど、格差とか環境の改変みたいなことが背景にあるのは確かです。

つまり、一方で今回は決して初めての事態ではなくて、常に人間の歴史の中で感染症との戦いとか、パンデミックというのは起こってきているし、何らかの社会的な背景がある。ただ、その度合いというか、程度が非常に、先ほど言いましたようにグローバル化や、格差の拡大が進んでいるので、非常にドラスティックに現れている。まず大きく言うとそんな感じで捉えられるのではないかと思います。

出口 もともとはローカルに制御されてきた風土病が、グローバリゼーションや、都市化・工業化の進展によって、他地域や、場合によっては全世界に移植され暴走し出すのがパンデミックである、というお話でした。この、ローカルにとどまっていったものがグローバルに広がっていくというパターンは、感染症の拡大というネガティブな事象にも当てはまりますが、そもそも人類の文明じたいが、そのような仕方で発展してきたとも言える。例えば、コロンブスによるアメリカ「発見」によって、梅毒菌が世界中に拡散してしまったけれども、一方でジャガイモやトマトやトウモロコシやトウガラシといった「新大陸」のさまざまな栽培植物が世界的に広まっていって、人々の生活の基盤になったのも事実です。一般に栽培植物というのは多分にそういうもので、例えば小麦は中東が原産で、もともとはその地域にしかなかったものが、世界中に伝えられたことで世界規模の農業革命が起こり、現在の世界人口を支えています。稲についても同じことが言える。このように、ローカルからグローバルへという流れは、少なくとも農業革命以降の人類の生存戦略の根幹をなしていて、感染症のパンデミックというのは、いわば、そういった人類の文明戦略の避け難い副作用という側面もあるのではないでしょうか。

広井 非常に面白い論点というか、大きなテーマで、そこら辺が多分、いろいろここで議論するべき話題の一つかと思います。私も基本的な認識は、出口さんの言われたとおりで、決してマイナス面だけではなくて、およそ、ある地域で生まれたものが広がっていくということが人間の歴史であったと言えると思います。遡って言えば、ホモ・サピエンスがアフリカで生まれて、地球全体に広がっていったのもそうですし、それから、1万年前に農耕がメソポタミアとその他で生まれて広がっていったとかもそうですね。そこに先ほどの、まさにパンデミックのような、非常にネガティブなものが起こることもあれば、それがプラスの面に不可避に伴う現象という面ももっている。私も、例えば、今回のパンデミックから直ちにグローバル化はだめなのだということに持っていく議論には少し距離を置いていて、しかし一方で、この辺が難しいところだと思いますが、ある意味でグローバル化が過度に進みすぎている状況への警鐘と受け止められるのでないかとも思っています。先ほどのペスト大流行というのは1348年ですが、14世紀というのは大きくは中世の終わりで、特にそのあたり以降から近世、近代に向かって、グローバル化がどんどん進む方向で推移してきた。その過程でパンデミックとかいろいろな感染症が発生してきたというところがあります。そして、今の世界の状況というのはグローバル化が極限まで進んで、ある種のピークに差しかかっていて、これは行きすぎではないかという地点まで来たところで、今回のようなパンデミックが生じているとも思えるのです。

例えば国際政治学でも、「新しい中世」という議論があって、これはJICAの理事長などもされていた政治学者の田中明彦さんなどが唱えた考え方ですが、私はそれは一理あると思っています。グローバル化がどんどん進行したことのネガティブな面が今、あらわになりすぎていて、これからは、私は定常型社会と言っていますが、もう少し経済成長も成熟期に入って、グローバル化を否定するのではないけれども、やや行きすぎている部分を是正して、もう少しローカルなところから出発する。スローフードみたいな話もそうですし、地産地消みたいなローカルなところから出発して、ナショナル、グローバルと積み上げていくような社会の姿。グローバルまずありきでナショナル、ローカルと下りていくのではなくて、ローカルから出発してナショナル、グローバルと考えていくような、そういう方向を考えていく必要があるのではないか。話が、やや急に大きくなりましたけど(笑)。

「アフターコロナ」の社会シナリオ

出口 いやいや、われわれとしては、そういった大きな話も、あえてすべきだと思います。いまお話しいただいた、グローバル化の再考という話題は、非常に重要なトピックですので、それに関してさらに論点を一つ二つ出させていただきたいと思います。これまでもグローバル化一辺倒の風潮に対する批判をこめて、「グローバル」と「ローカル」をあわせた「グローカル」という言葉が語られてきました。いま広井さんがおっしゃっていることも、それに重なるかもしれませんが、

広井 そのとおりですね。

出口 その「グローカル」という言葉に含まれているグローバルとローカルの関係について、広井さんはさらに一歩踏み込んで、まずはローカルを基盤に据えて、そこから一歩一歩、社会システムを積み上げていって、最後にグローバルに到るというモデルを考えておられるのだとお見受けしました。そのようなお立場から見て、このコロナパンデミックの後、ローカルとグローバルの関係が、どのような方向に動いていくのか、ないしは動いていくべきなのかということをお聞きしたいと思います。その糸口として、コロナパンデミック後の社会、いま「アフターコロナ」という言葉も語られ始めているようですが、ここで、そのアフターコロナの世界で起こるかもしれない二つのシナリオを出させて頂いて、それらについてのご意見を伺いたいと思います。

一つ目のシナリオは、社会の遠隔化です。現在、社会のあらゆる局面でソーシャルディスタンシングの必要性が叫ばれていて、日本の大学界も、遠隔授業の実施にむけて、てんやわんやの状況にあるわけですが、コロナパンデミックを契機として、学校教育さらには社会一般の遠隔化が劇的に進むのではないかという声があちこちで上がっています。実際、会社に行かず、在宅で勤務してもある程度仕事が回ったということが社会的に実証された場合、通勤通学時間や、鉄道等のインフラ維持にかかるコストを考えると、遠隔化された社会の方が、経済的にも、また環境面から言ってもベターだということになる。結果として、国内的にも国際的にも、社会・経済・産業の遠隔化にむけたドライブが一気にかかることが予想されます。

次に二つ目のシナリオですが、今回のコロナパンデミックは、われわれ人類がグローバル・スケールで一蓮托生、運命共同体であることを、まざまざと示しているとも言えます。遠い国の奥地で、新しい伝染病が発生したとして、それに対する対処をその地方や国だけに任しておくと、今回のように、あれよあれよと言う間に手遅れになってしまって、再びパンデミックに至ってしまうかもしれない。すると、ローカルな初動の段階で国際機関が介入し、感染拡大の防止や、新たな病原体の情報収集を行ない得るような体制を国際的に構築すべしという声も当然でてくるでしょう。また病原体を扱う研究施設の安全性を国際的に査察する仕組みを早急に作ろうという動きも起こるかもしれません。このようなシナリオでは、グローバルなシステムがローカルな領域に、これまで以上に直接、土足で入り込むという事態が生じることになります。もちろん国際機関の介入権限を強化した場合、パンデミックのリスクは下がるかもしれませんが、ローカルな自治権が侵害され、全人類の生命と健康を守るという錦の御旗の下、地域住民の自由や人権が軽々しく制限されるという事態も起こりかねません。

以上の二つのシナリオは、ともに十分起こりうるものだと思われますが、広井さんはどう評価されるでしょうか。

広井 非常に面白い論点を出していただいたので、ここはぜひ、議論したいところです。前半の遠隔化については、現代において情報化というのが進む中で、情報社会の前期、後期という区分が考えられるのではないか。私の持論では、情報化が今、その後期に入ろうとしているのではないかと思っていて、そのキーワードが分散だと思っています。遠隔化というのは、言い換えると分散という話にかなり通じる。どういうことかというと、情報化というのは先ほどの前期においては、いわゆるGAFA、Google、Amazon、Facebook, Appleのようなかたちで、どんどん集中化や巨大化が進んでいってしまって、一見、民主的であるように見えて実は権力の集中化が進むという状況になっているわけです。だけどそれが、最近はGAFAもいろいろほころびが出てきたとか、収益が落ちてきているみたいなことを言われているように、様々な限界が出てきています。私の考えでは、やや単純な言い方ですが、現在は情報化の後期の局面に入っていて、その軸が分散化ということになります。つまり集中に対する分散化、あるいは小規模化やローカライゼーションという方向であり、それが今、いろいろな形で進んできている面がある。今、出口さんが言われた遠隔化というのは、分散化ということとかなりつながる部分があるわけです。確かに今回のパンデミックも、ニューヨークにしても、東京にしても、人口が集中しすぎているところで起こっている。ですから、それを抑える意味でも遠隔化、あるいは分散というのが重要ではないかと。

関連で言いますと、分散化というテーマは、日立京大ラボと共同研究を行いましたAIを活用した日本社会の未来シミュレーションともつながります。その研究では、2050年に向けて2万通りぐらいのシミュレーションあるいはシナリオを出して分析しましたが、そこでも、地方分散型システムというのがいろいろな面で持続可能性が高いというメッセージが出ています。ですので、出口さんの言われた遠隔化というのは、分散という意味ではこれからの大きな方向であると。

ただ、一つ注意するべきは、遠隔化というのは言い換えると、よくも悪くも身体性とか、お互いリアルな場で接しながら話し合うみたいなことがどんどん無くなっていく面をもっています。私はむしろ、これから逆に身体性とか、ローカル性みたいなのが重要になってくると思いますので、遠隔化というのは、そういう身体性みたいのを消し去らないような方向で進んでいくことが重要かと思います。

それから、後半で言われた国際機関みたいなところが介入することで、あるいは情報がどんどん行き渡ることで、ある地域に発生した感染症なりを早い段階で抑えることができるとか、いろいろな効果があるという面は確かにあると思います。ただし、あえてこれも単純化して整理すると、私はこれからの世界の方向性としては、大きく三つぐらいのモデルがあると考えてきました。一つは言わば世界市場モデルです。どんどん経済主導のグローバル化が進んで、世界市場ができていくけれども、ある種、リバタリアニズム的というか、どんどん格差も広がり、環境も破壊されていくというモデルです。2番目は世界市場プラス、ある種の世界政府というモデルです。世界市場があるのに応じて、つまり経済がグローバル化していくのに応じて、政治もグローバル化していって、いろいろな介入を行ったり、再分配を行ったりするモデルです。しかし私はむしろ次の3番目が、これは個人的な見解ですけど、望ましいのでないかと思っているのですが、それが先ほども出た、ローカルから出発してナショナル、グローバルと積み上げていくというモデルです。いろいろな問題に極力ローカルなレベルで対応していくような、そういう姿がこれからの基本で、それがもしかしたら、ある意味で一番レジリエントといいますか、未然にいろいろな問題の発生を抑えるという点からも望ましいのではないかと思っています。今回のパンデミックは、そのあたりをどう考えていくかの、一つの契機になると思います。

情報と生命

出口 わかりました。では、もう一つのご専門である公共政策論の観点からお話をいただきたいと思いますが…

広井 それから、科学史の観点からもう一点だけ、すみません、時間は(笑)、

出口 もちろん大丈夫です(笑)。

広井 これも、ある意味持論ですが、私の専門の科学史の観点から申しますと、17世紀からの科学の基本コンセプトが、大きく言うと物質、マターですね。それから19世紀にエネルギーという概念が生まれ、20世紀半ばからは情報が科学のメインストリームに登場し、先ほど情報社会の前期、後期というお話もさせていただきました。そして、私は、情報の次なる基本コンセプトは生命、ライフだと考えています。やや距離を置いた言い方をすると、今、情報、情報と騒いでいるのは既に時代の流れを逸していて、私は、情報はすでに成熟段階にきていて、その次の段階に入ろうとしているのではないかと見ています。この場合の生命というのは、英語ではライフですが、分子生物学的な意味のライフのみならず、人生とか生活という意味にもなってきますし、ミクロの生命だけではなくて、それこそ生態系とか、地球の持続可能性みたいな、エコロジー的なマクロの意味も含んでいます。やや強引な言い方ですが、このパンデミックの問題とはまさにこうした生態系のレベルでのライフにも関わる問題で、地球環境の問題ともつながるものです。情報社会が成熟して、その次の生命というものをいろいろなレベルで考えていかないといけない局面に入っていることを、今回のコロナウイルスの問題はある意味で象徴している面があるのではないかと思っています。

出口 今のお話、非常に刺激的で巨視的な史観として伺いました。短いお話を聞いただけで軽々に賛成するのは、むしろ失礼に当たるかもしれませんが、私としては共感を持ってお聞きしたところです。特に今回のパンデミックは情報と生命が踵を接している、ないしは情報から生命への移行の切っ掛けとなりうる事態であるというご指摘については、私も、自分なりの観点から、そう考えています。

これは第一回の藤原辰史さんとの対談でも申し上げたことですが、われわれ人類が、ワクチンや特効薬のない伝染病にどう立ち向かうかということになると、現時点では、疫学、エピデミオロジーという専門知を用いざるを得ない。実際、コロナパンデミック下で各国政府にアドバイスをされているのは、主として疫学の専門家の方々です。この疫学、エピデミオロジーは、基本的には統計的思考法に立っていて、個々の因果関係を追っていくことをあきらめ、現象を数値化・データ化した上で、多量のデータを集め、そのデータが空間的にどのように広がっていくのか、時間的にどう増減するか、その分布に注目するという姿勢を取っています。ウイルス感染の因果メカニズムを明らかにし、そのどこかをストップするという病理学・薬理学的なアプローチではないのです。

広井 そのとおりです。

出口 こういった統計的発想は、また、ものごとを情報として見る、情報化するという発想でもあります。感染や病いや死という、現実に起こっている生々しい病理学的ないし生物社会学的事態を、「感染」と「未感染」という二値的でデジタルな情報と読み替え、ウイルス感染を情報の伝播として捉える、言い換えると、抽象化された情報伝播現象として見るということが、ここでは行なわれているわけです。

広井 そのとおりですね。

出口 このような統計的ないしは情報論的発想の起源は、17世紀、18世紀の確率論や統計学の誕生にまで遡ることができますが、それが本格的に社会に入ってくるのは19世紀、正規分布という数学的に扱いやすい便利なツールが発明され、それが様々な偶然現象に広く適用できそうだという見通しの下、社会政策への応用が模索されるようになってからです。その一環として、情報論的な統計学と、昔ながらの伝染病研究が結びついて、現代的な意味でのエピデミオロジーが登場する。

この大きな流れの中で注目すべきは、統計的・情報論的アプローチの対象となる現象のシフトです。近代科学は物理学から始まりました。それにともない統計学も、物理学の方法論として、具体的には天体の細かい運動を扱う摂動論と、地球の大きさや形を測る測地学における測定の方法論として成長してきました。ガウスたちが先にお話しした正規分布を発見したのも、このような文脈の中でのことでした。この場合、数量化・多量化・情報化が施される対象は、要するに物体、いわば大きな石ころですね。石ころに対しては、われわれは倫理的配慮をする必要がない。倫理的配慮が不要な環境で作られたデバイスには、当然、倫理的な発想が組み込まれていません。そのような無倫理的ないし没倫理的な装置や思考法が、その後、倫理的配慮が必要となる生物を扱う生物学、そしてついには人の生命を扱う疫学など医学の領域に本格的に入ってくるのが20世紀です。近代統計学の展開において、倫理的配慮が不要な現象から不可欠な現象へという、対象の大きなシフトが起こったわけです。その中で、そもそも石ころを相手にしていた没倫理的な装置を、倫理的にセンシティブな医学に持ち込んだわけですから、当然、さまざまな倫理問題が噴出しました。それを受けて、いわば泥縄式ないしは外付け的に、これまたさまざまな倫理コード、例えば無作為化臨床治験(RCT)の倫理コードなどが提案されてきました。しかし、そもそも疫学を含めた統計的方法論には、基本的な設計思想が、人間や生命のような倫理的な対象を扱うようにはできていないという根本的な問題があると思います。対象を数値化し抽象化し情報化するというアプローチと人の生命の間には、単なる倫理コードでは架橋できない、大きなギャップが横たわっていると言わざるをえないのではないか。

以上のことは、確かに、専門家の間では既に当たり前のこと、何を今更と言われるような事柄だと思います。統計的・情報論的思考法によって人間の生命を多数量や多量情報として取り扱うという態度は、例えば保険や年金制度として既に定着しています。また近年、エビデンス・ベースド・ポリシー・メーキングという旗印の下、このような傾向にますます拍車がかかっています。しかし今回のコロナパンデミックでは、これが初めて、誰の目にも見える形で社会の前面に出てきた。連日テレビ等のマスメディアで、われわれは、さまざまな確率分布のカーブを見させられながら、人の命が大規模な数値や情報として処理され、コントロールされるのを文字通り、目の当たりにしています。そして多くの人々が、このようなアプローチに、仕方が無いと思いながらも、どこかで納得できない、納得したくないという気持ちも抱えているのではないでしょうか。この統計的・情報論的な生命のコントロールというアプローチが、違和感を伴いつつも広く社会的に認知されたというのが、今回のパンデミックが持つ科学史上の一つの大きな意味ではないかと思います。

広井 面白いですね。

出口 そして、これが、ある種のパラダイムシフトにつながる、一つのきっかけになるかもしれないとも思います。繰り返しますが、現段階では、われわれはエピデミオロジーに頼るしかない。内外の疫学の専門家の意見に、政府もわれわれも、もっと耳を傾けるべきだと思います。一方、統計的・情報的なアプローチは、特に生命を扱う手段としては、あくまで次善の策にすぎないということも明らかになりつつあるのではないか。生命を数値や情報として抽象化せず、また単なる特殊な物理現象として没倫理的に扱うのではなく、人間や生命の尊厳に対するセンシティビティや倫理的な配慮を基本設計に組み込んだ新たな知を模索する。そういった動きが、社会や科学界から出てくるのではないか。期待を込めて、そう考えています。

広井 いや、それはまた非常に重要なというか、本質的で面白い点をまた提起していただいたと思います。社会的な次元の話題にいく前にそれについて一言だけ足しますと、疫学というのはある意味で大きなプラス面もあると思っています。例えばかつて水俣病が出てきたときに、水俣病の原因が何かというのはなかなか解明されず、チッソの工場から出ている水銀だというのはなかなか証明が難しかったわけです。しかし現に、人が現にばたばた倒れているということで、こういった特定の地域に患者が集中して現れているのは何か理由があるということを、実体的な因果関係は証明できないけれど、現象レベルで統計的に明らかにしていくと。そういうところで疫学というものが出てきたので、やむを得ざる現実的な課題への対応として出てきた面であるとか、それから、ある意味で近代科学的な要素還元主義とは異なるパラダイムみたいな、そういう新しいプラスの面もあったかと思うのです。

一方、おっしゃられるように情報と生命という視点が重要です。私は情報的生命観という言い方をしていますが、生命というものの探求は、例えば19世紀あたりには、先ほどのエネルギーの概念が出てくる中で、生気論、バイタリズムというのが出てきたり、あるいはエネルギーですべて生命も説明できるという、エネルギー一元論というのも出てきたりしていました。しかしながら、やがて遺伝学の分野とかその他関連領域が展開していく中で、結局生命というのは情報ということで理解できるのだという、情報的生命観とでも言えるようなものが強くなっていったわけで、その流れの延長に現在の状況があります。しかし、出口さんが言われるように、果たして情報ということで生命の問題を理解して、それですべて片づくのかという点がいま問われていますね。情報では片づけられない固有の価値なり側面が生命にはあると私は考えますが、いずれにしても情報と生命というテーマが今回のパンデミックの中で浮かび上がってきているというのは、まさにご指摘のとおりだと思います。

出口 情報というかたちで現象を抽象化したとき、後景化するのは情報を伝える個別の媒体、複数形で言えばメディア、単数形ではメディウムです。情報というのは、個々のメディウムを脱して、飛び石の上を跳ねまわるように複数のメディアの間を伝わることで、初めて情報になる。その情報に焦点が当てられる場合、踏み台にすぎないメディアは、交換可能、代替可能な存在として背景に退けられます。話を情報レベルに抽象化すると、例えばそのようなメディアの一つである生命や人間や身体が持つ固有のメカニズムや価値が捨象されてしまいます。それに対して、メディアは情報を媒体する単なる透明な器ではなく、そこには固有の磁場が働いていて、同じ情報でもメディアごとに異なった様相を見せると考え、そういった情報のローカルな振る舞いを、メディアを取り落とさず、むしろメディアごと、ごっそりと扱おうというのがメディア論だと思います。このようなメディア論的なアプローチが医学や生命論において、今後、よりハイライトを浴びるのではないかと期待しています。

広井 おっしゃるとおりだと思います。私は、これも持論ですが、ポスト情報化ということを言っていまして、情報化が行き着くところまでいって、その次を考えるべき時代にきている。それが生命というテーマとつながり、それから、ポスト情報化というのは、先ほどのポスト・グローバル化という話ともつながっていて、しかもローカル性に関するテーマともつながる。だから、今回のパンデミック、コロナの話は、非常に広がりが大きい意味を持っていると思います。

(以下、後編に続きます。)

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