第1回全学シンポジウム「アジア人文学の未来」のアンケートでいただいた質問に対して、登壇者の先生方からお答えをいただきました。

「京都学派の過去・現在・未来」

藤田正勝先生への質問:欲望の連鎖にとらわれた「偽我」を脱却しようというお話でしたが、脱却しようとしている主体は「偽我」でしょうか、それとも本当の自己でしょうか。脱却しようと望むこともまた欲望なのではないでしょうか。

藤田先生のお答え:とても重要な問題に関わる質問をいただき、ありがとうございます。わたしは、わたしたちが欲望をもっていること、あるいはいろいろなことに意欲をもち、それを実現しようと努力していることを否定しているのではありません。それはとても大切なことです。しかし、わたしたちは往々にして、生きる上でさしあたって必要でないものでも、目の前にあればそれを手に入れたいと思いがちです。いったんそれを手に入れても、さらに多くのものを手に入れたいと思うようになります。欲望はいったん刺激されると、かぎりなく大きくなっていくのです。その大きくなった欲望に追い立てられて、わたしたちは「欲望の連鎖」のなかにはまり込んでいってしまいます。そうなると、欲望を満たすことを最優先にして、他のこと、あるいは他の人のことを顧みなくなるということが起こります。そういう自己のあり方を、わたしは西田幾多郎の言葉を使って、「偽我」、つまりいつわりの自己という言葉で表現しました。もし、自己のそうしたあり方に気づき、その連鎖から脱却しようとするとすれば、そのとき、わたしたちはもはや「偽我」ではありません。そうしたあり方から脱却しようという意欲をもつことは、ほんとうに人間らしい生き方だと思います。簡単ではないのですが、わたしもそういう生き方をしたいと思っています。

Thomas Kasulis先生への質問:未来について考えるときには、計画を立てそれに対して責任をもつ(responsible)というあり方よりも、応答的(responsive)であることが重要というお話でしたが、そのちがいをもう少し詳しくお話いただけますか。

Kasulis先生のお答え責任をもって行動しようとするとき、私たちは、既存のカテゴリーや原則を目の前の状況に当てはめて公平な選択をしようとします。責任をもつということは、どんな状況にも当てはまるものとして確立された理想や規則といったものに忠実であろうとすることです。それらの規則は、私たちが求めているものへのガイドとなってはくれますが、私たちの視界を制限するものでもあります。

これに対して、応答的に行動するというのは、自分の想像力や感覚、思考を総動員して、目の前の状況に関わることから始まります。そのとき、これから自分がどうすべきかという判断は「自然(じねん)に」あるいは「おのずから」生じてきます。その判断は、目の前の状況に外から当てはめられるような原則や規則、法則に責任をもつという仕方ではなく、状況それ自体の内側からの応答として生じてくるのです。

まとめますと、一方に責任をもつというあり方があります。これは、これまでとの整合性や連続性を保ち、現状を維持しようとすることです。他方で、応答的であるとは、自由、変革、創造を触発するあり方です。私たちはいま、そして近い将来、これまでの前例が通用しない、複雑で、差し迫った危機に対処していかねばなりません。このような状況のもとでは、責任をもつということよりも、応答的であるということこそが重要視されるべきだ、と私は考えています。

 

「世界の中の京大東洋学」

礪波護先生への質問:いま、中国学・東洋学が不人気のようです。社会全体にこの学問の魅力を伝えるには何をすべきでしょうか。また、この不人気には日本と中国の関係悪化も影響しているのかもしれません。そこでたとえば、桑原先生は研究対象たる中国に対して一定の距離をおいた態度をとっていたなどと言われることもありますが、研究対象との付き合い方はどのように考えればよいでしょうか。

礪波先生のお答え:中国学・東洋学が不人気なのは、特に今に始まったこととは思いませんが、日本と中国の関係悪化が影響していることは確かでしょう。特効薬はありませんが、機会があれば、教師が広報活動をすべきでしょうね。研究対象たる国に対して一定の距離をおいた態度をとるべきかについては、一概に言えません。あまりに好意的に解釈するのは問題ですが、悪意で対応するのは、いかがでしょうか。桑原隲蔵も中国が大好きだったと思います。

林暁光先生への質問:東洋学といえば儒学が挙げられると思いますが、現代の中国での儒学の捉えられ方、および先生個人の捉え方はどのようなものでしょうか。

林先生のお答え:私は儒学分野の専門研究者ではないので、下記の回答はあくまでも個人的な観察や感想です。儒学と言えば清末まで凡そ二千年間、大半の時期において中国の中心的なイデオロギーであったといっても過言ではありませんが、19世紀末以来の洋学吸収や新文化運動によって、20世紀に入るともはや次第に打倒すべき目標となってきました。この趨勢は基本的に20世紀、1990年代まで続いていたと思われます。従ってそれまでの「現代中国での儒学」という存在は、僅かな経典の注釈と罵倒を除けばほぼ空白と看做しても差し支えありません。然し、19世紀末から20世紀半ばまでの一連の戦争や革命によって、数多の知識人は中国大陸から香港や台湾などの地方、さらにアメリカなどの外国へ流れていました。その中で、儒学を積極的に受け取って、講学や著述によって広げた一派が「新儒家」と呼ばれます。また、儒学を思想史、文化史、政治史など歴史学的な立場から捉えて研究する学者も少なくありません。これらの研究は、中国大陸で改革開放が実行されて以来、逆に大陸に輸入され、多岐な影響や反応を引き起こしました。従って現在中国の儒学には――儒家学説及び文献・歴史などについての研究と定義すれば――基本的に二つの進路が見えます。

一つは、儒学をほかの古典的な学問と同様に扱い、中国文明の一環として比較的に傍観的、批判的な立場で研究することです。今まで発表された多数の研究はこの進路を取ったといえます。もう一つは、ことに政治学者や哲学者の間に盛り上がっているようですが、儒学を現代社会・現代国家ないし現代人の生活に対してもやはり基礎的な意義を持って、それを掘り出して現代中国の進路を指導しようとする姿勢を取って、『春秋』学・三礼学などの形として現れるものです。無論、後者は常に所謂中国文明的な伝統を復興し、西洋の近代文明の弊害を指摘して西洋文明を排除する姿勢として現れています。一口で儒学と呼びますが、この二つの進路は実は相当に対立しており、互いに認めない傾向が見えます。

私個人的な捉え方はどうかと聞けば、大抵この二つの中の前者に賛成したいです。勿論儒学は二千年の長い間に中国ないし東アジア文明の中心として、いうまでもなく非常に重要な歴史的な存在として認めて、公正に研究すべきだと思います。それは過ぎ去った歴史にとってのみならず、21世紀に生きている我々にとっても現実的な意義は多大でしょう。新文化運動以来数十年の間にそれを無視して、一口で罵倒することは、今日から顧みればもはや理不尽なやり方としか思えません。しかし、この極端な罵倒によって反動が引き起こされ、一転に儒学を全面的に擁護して、宗教のように信仰して、現代人でありながらそれによって生活を指導することは、寧ろ愚行だといえましょう。現代人としての我々にとって、中国文明を含む全世界の多様な文明の有益な部分を取り込んで、ひとそれぞれ好きな部分を身に着け、自由に成長できることは、当たり前の理想だと思います。それを実現するために、「これだけはいいものだ」とか、「私が民衆のために有害なものを見分けて、悪を予防して排除しておこう」とかというような考えは、まず反対すべきではないか、と信じております。

 

「フィールド人文学の可能性」

山極壽一先生への質問:ゴリラやサルなど、人間の言葉の通じない非言語世界についてのお話が興味深かったです。非言語世界の研究も、帰ってきてから言語化して報告、エスノグラフィーを作成すると思いますが、そこで矛盾が生じることはないのでしょうか。

山極先生のお答え:無理に人間の言葉に還元せず、ある行動がどういう結果につながったかを記録して、行動の連鎖を因果関係に結び付けて分析しています。

[他の先生方の回答についても順次公開してまいります。]